2018年5月3日木曜日

「ネイティヴ琴古でない」からこそ

僕が12歳で尺八を始めたときにお習いした先生は、都山流の方でした。
それから18歳で大学に進学し、琴古流の道を志すまでの6年間、古曲も本曲も都山流の尺八で学びました。

都山流と琴古流では、技法や譜面などに大きな違いがあります。
古典の演奏で使う特殊技法は、それぞれの流派に特徴的な手がありますが、それらについては琴古流に移行したときに「新規」の技法として習得したため、特に大きな違和感はありませんでした。自分の中で最も困ったのは、実は「譜字」つまり指づかいに対する名称の違いでした。

尺八には基本的な指づかいが5つあり、そのうち4つ目までは両流派とも同じく「ロ、ツ、レ、チ」と呼びます。最初に習った都山流では、5つ目の音は「ハ」と呼んでいたのですが、琴古流では「リ」と呼ぶのです。初めて琴古流のお稽古に通ったときには、「都山のハ=琴古のリ」というのは知識としては知っていたのですが、いざ「リ!」と先生から言われると即座に反応できない自分がいました。

しかも、実はもっとややこしいことに、都山では乙(おつ=第1オクターブ)でも甲(かん=第2オクターブ)でも「ロ、ツ、レ、チ、ハ」と共通なのに対し、琴古は乙は「「ロ、ツ、レ、チ、リ」、甲は「ロ、ツ、レ、チ、ヒ」と、呼び方が変わるのです(指づかいもリとヒでは少し違う)。さらに、それら5つの音の次の「6つ目の音」があり、都山流では「ヒ」と呼んでいたのです。この都山の「ヒ」と、琴古の「ヒ(=リの甲)」を混同してしまう。さらにさらに、では琴古流では「6つ目の音」を何と呼ぶのかというと、「5のヒ」と呼ぶのです。…もうなんだか書くのもややこしいというか、尺八をやらない方にとっては何が何だかも分かりませんよね…

なぜこんな話題を出したかというと、僕はこの「譜字に慣れない」という戸惑いを出発点として、何度「ああ、最初に尺八を始めるときから琴古流だったなら…」と思ったか分からないのです。それは、琴古流を始めてから6年が過ぎ、もはや都山流を演奏していた時間の長さよりも琴古流のキャリアの方が長くなってきたときに、より一層そう思うようになっていました。どうしても、少年期に習った「最初の記憶」は、なかなか刷新されないのです。都山流から琴古流に移った人ならば察しがつくと思いますが、琴古流の古典的な要素に憧れて転門したこともあって、自分自身の中にどうしても「ネイティヴ琴古流」を羨む気持ちが根強かったわけです。



しかし、今思えば「都山流を勉強したことがある」というのは、自分にとって大きな財産でもあったわけです。最近、それを強く感じるようになりました。



一般的に「琴古流の方が古典の演奏に向いている」というイメージがあります。しかし、果たしてその認識を無批判に太鼓判を押して良いものか、僕は深く考えるようになりました。琴古流は、基本的に箏・三絃に「ベタ付け」です。「糸を邪魔しない」ともよく言われるのですが、要するにユニゾンなんですよ。僕は「ユニゾン」というものにも大変素晴らしい音楽的魅力を感じる場面も多く、決して同旋律であるから工夫がないなどという思いはありませんが、曲によっては「ああ、都山の手付けって、やっぱり都山ならではの工夫があるなあ」と思うことがあります。

その最たる例が「千鳥の曲」です。この曲は、もともとは胡弓の本曲だったそうですね。都山流の技法は胡弓の奏法にヒントを得ていることもあり、「千鳥」の手も中々に曲調にマッチングした面白い手付が多いです。「千鳥」は初傳曲のため、当然少年時代にまず都山流で習っています。そのときの曲のイメージで琴古のベタ付けを吹くと、あまりに箏本手の旋律のまんまなんですよ。「ネイティヴ琴古」を羨む気持ちから「…いや、都山には都山の工夫があるんじゃない?」という認識に変わるきっかけをつくってくれた楽曲です。


都山流に対する批判で多いのは「手がうるさすぎて糸を邪魔する」というものです。確かにちょっと一癖ある手が盛り込んである楽曲も多く、僕も違和感を感じる時は多いです。ただ、両方の古曲、譜面を経験した上で思うのは、手付のクセは確かにありますが、最大の都山流の問題は、「譜面に糸の手が書いていない」「そのため、本手に対して替手を吹いているという意識が薄い」ことにあると、僕は見ています(琴古流は、本手とは違う旋律のところは、糸の音が併記してある)。対して琴古流は、「ユニゾン」の要素が威力を発揮している時はいいのですが、悪い言い方をすると「無難」で、ソツなく破綻せず合奏が出来上がってしまうところがあります。アタリとかスリとかの技法で「味」が出しやすいので、そこまで工夫せずとも格好が決まりやすいのかもしれません。そういうところに慢心せず、自分自身の表現によってしっかりと「音楽的工夫」を創出して行きたいものです(別に都山流の手を真似したいという意味ではありません)。



フリーランスな琴古流尺八奏者に転じて、あらためて「都山流をやったことがある」という経験を持つことができたことに感謝の念を抱いています。都山と琴古でどっちがよいとか、そんなことでお互い競い合うようなことは、もう本当にやめたほうがいいと思います。琴古流はどうしても歴史が長いために、特に古典の演奏で長じていると感じやすいケースが多いように感じますが、僕は都山流の工夫で優れたところは素直に素晴らしいと感じたいなと思います。同時に、琴古流がそこまで「伝統的な優位性」を主張する裏には、圧倒的な都山流の尺八人口を嫌が上にも意識しているという面も見え隠れするように感じます。しかし…もう、尺八人口自体が激減していて、そんなことでライバル意識で張り合っている場合ではないですし、ともに仲良くしていったほうがいいんじゃないですか?僕は、そうして行きたいです。

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